第60回 潮干狩り

 雛祭(ひなまつ)りが過ぎると春らしい気候になるものだが、今年はいつまでも寒い日が続いていた。旧暦(太陰暦)では、今年は閏月(うるうづき)がある年にあたり、2月が2度あることになる。寒さが続いたのは、この月の満ち欠けが微妙に影響したのかもしれない。
 例年、春分の日あたりが大潮(おおしお)となり、干満の差が一番大きくなる。今年の大潮は3月19日(理科年表による)、それから4月17日にかけての干潮時が、潮干狩(しおひが)りに絶好のシーズンとなる。
 さて、暖かい日差しに誘われ海浜へ出掛け、春風に吹かれて潮干狩りを楽しむのは、江戸時代も今も変わらない。品川沖や深川の州崎(すさき)沖で、着物の裾(すそ)をまくって老若男女が潮干狩りに興じた。その風景は画題にもなっていて、絵本類にはよく描かれている(図版参照)。
 品川沖や州崎沖は首都圏のビル街に埋め立てられて、昔の面影はなくなってしまったが、今では、そこから少し離れた砂浜に、あらかじめ地元の漁協が浜辺に稚貝を放って禁漁として春先に解禁、家族連れが潮干狩りを楽しむ風景が風物詩としてテレビなどで紹介されている。
 江戸時代、深川州崎沖など江戸湾の浜辺で獲れたアサリは、むき身にして、アサリ売りが「あさりむきん(むき身)」と江戸市中を担(かつ)いで売り歩いていた。アサリ売りは、子供のアルバイトでもあった。
 江戸湾で獲れたアサリが江戸庶民の食卓にのったのは、そんなに古いことではなかった。承応3年(1654)に利根川の瀬替え工事が完了し、氾濫を繰り返していた隅田川が暴れ川の名を返上し、隅田川の真水と江戸湾の海水とが入り会(あ)いとなる州崎沖が出現してからのことである。
 それまでは、平安時代に現在の言問橋(ことといばし)近くに立ちすくみ、荒涼たる光景を眼前に見た在原業平(ありわらのなりひら)が、「名にしおはばいざ言問はむ都鳥(みやこどり)わが思ふ人はありやなしやと」と詠(よ)んだほど、隅田川の周辺は泥湿地帯であった。それが、現在の隅田川の流れのようになって、深川一帯もようやく人の住める土地となった。三代将軍家光(いえみつ)の時代には、深川界隈はまだ隅田川の川底だったのである。
 その後、江戸の急速な都市化と人口増によって深川一帯の開発が進み、大名屋敷と御蔵(おくら)が建ち並んだ。その一角に、俗にいう辰巳(たつみ)芸者(深川芸者)を看板にした歓楽街が形成されたのは、18世紀半ばのことだった。
 その深川から江戸湾を望む砂浜は、品川沖と並んで潮干狩りの恰好(かっこう)な地だった。 

深川洲崎の浜の潮干狩りの光景。女性たちは、袖を短く仕立てた潮干小袖(こそで)で磯に出ている。向こうの江戸湾には舟が浮かぶ。左に見えるのは洲崎神社。(喜多川歌麿画『絵本江戸爵〈えほんえどすずめ〉』天明6年〈1786〉刊より) 

在原業平…825~880。平安初期の歌人。六歌仙、三十六歌仙のひとり。父は阿保親王(あぼしんのう)。『古今和歌集』から『新古今和歌集』などの勅撰集に多くの歌がおさめられている。『伊勢物語』の主人公とされ、東下(あずまくだ)りの際に詠んだのが都鳥の歌。

三代将軍家光…1604~51。二代将軍徳川秀忠の次男。元和9年(1623)将軍となる。武家諸法度、参勤交代など江戸幕府の基礎を築いた。

辰巳芸者…深川が江戸城の辰巳(東南)の方角に位置することから、深川芸者のことをこう呼んだ。意地と侠気(きょうき)を売り物にして、男性の着る羽織を着て客席に出ることもあったので「羽織芸者」ともいう。

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