第61回 お金の話~両替~

 4月1日から消費税8パーセント。駆け込み需要では、デパートなどが売り上げを伸ばしたようだが、4月からの消費の冷え込みが心配されている。庶民の財布には、おつりの小銭が増えるばかりかもしれない。
 さて、今回は、お江戸の商売とお金の話。
 江戸の三井呉服店(越後屋=三越伊勢丹デパート)は、新しい商法で成功した。ひとつは、店に商品を並べて売る方法。井原西鶴(いはらさいかく)の『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』(元禄元年〈1688〉刊)には、三井八郎右衛門の話が書かれている。江戸の駿河町(するがちょう。中央区室町)に間口(まぐち)が9間(けん)(約16メートル)、奥行き40間の棟(むね)の高い店を構え、主に武士客が好む反物を揃え、手代(てだい)40人余りに反物の種類別の売り場を担当させ、客の要望に応えて布地(きれじ)を切売りもして、急ぎの客には即座に仕立てて渡したという。
 そして、三井呉服店は、「掛値(かけね)なし現金大安売り」が看板であった。「掛値なし」とは、値段を高くせず薄利多売ですということ。ただし、「掛売り(代金を後日支払う約束で売ること。現代のクレジット・カード支払い)」は致しません、すべて現金支払いですよ、というわけである。
 江戸時代以前から商業都市だった大坂では、商品とお金を交換する現金売買の取引きより、帳面に記帳して大晦日(おおみそか)などの節季ごとに決済する信用取引きが主流であった。
 それに対し新興都市だった江戸では、古くから住んでいた商人も少なく、取引きのしきたりや商道徳が未成熟だったため、売買するその場でお金を授受して決済する現金支払いが主流だった。そうした現金支払いの風土に三井呉服店の商法がマッチしたともいえるわけで、もし、同じ商法を大坂で展開させても、おそらく成功はしなかったと思われる。
 ところで、当時の小判一両は、現代価格にするとおよそ15万円相当だから、小判は高額貨幣になり、これで日常の買い物をするのは不便だった。だが、旗本(はたもと)や御家人(ごけにん)といった武士たちの俸禄は小判か米で支給されていたので、どうしても日常生活で使う銭に両替しなくてはならない。そこで専門に小判を銭に両替する銭両替屋が大はやりであった。
 小判や一分金(いちぶきん。小判の4分の1)といった高額貨幣の金貨を、銀貨(1両=銀60匁〈もんめ〉)や低額貨幣である銭(1両=4000文)に両替することを「切る」、その両替賃を「切賃(きりちん)」、その反対に銭4000文を1両に両替することを「打つ」、両替賃を「打賃(うちちん)」と言った。江戸市中を両替して歩く銭両替屋へ武士が「小判を切ってくれ」と頼むわけである。
 しかし、幕末期になると、大→小、小→大に両替することの両方を「切る」(「切賃」)とも「打つ」(「打賃」)とも言うようになった。そして明治政府が金属貨幣から紙幣に切替えて「両」から「円」の時代を迎え、両替商は銀行と衣替えして「両」は消えた。だから、円の紙幣を他の貨幣、銭(せん)などと交換することを「円替」「銭替」と呼び方も変わってよさそうだったのだが、江戸の昔の「両替」という言葉がそのまま残って現在でも使われている。

世の中は金が余って捨てどころに困る時代になったと、金回りがわるくなった世相を逆さ見立てにした黄表紙(きびょうし)『孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)』(山東京伝作・画 寛政元年〈1789〉刊)の挿絵より。真ん中の看板には「かけねあり(掛値あり)大高売(おおたかうり)仕候(つかまつりそうろう)掛売りずいぶん仕候」と書かれている。三井呉服店など江戸の呉服屋の看板をパロディー仕立てにしている。

井原西鶴…1642~93。江戸前期の浮世草子作者・俳人。大坂の人。西山宗因(そういん)の門下で談林風を学び、矢数俳諧を得意とした。『好色一代男』『好色五人女』をはじめ、世の中と金を描いた経済小説ともいうべき『日本永代蔵』『世間胸算用(せけんむねさんよう)』など、多数の作品を残す。

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