第67回 「歩きタバコ」の禁止

 梅雨入りになって雨の日がつづくと、喫煙コーナーなどには屋根がないところが多いので閉口させられると、愛煙家の嘆きが聞こえてくる昨今でもある。
 江戸時代は、今のような紙巻タバコではなく、刻みタバコだったから、キセルを使って喫煙した。凝ったデザインのタバコ入れを持ち、キセルをお洒落に使いこなす、そんな意気な小道具、タバコは江戸の庶民の間で大変流行っていた。
 タバコが日本に渡来したのは、江戸幕府成立後まもない慶長10年(1605)のことで、南蛮(なんばん)より渡来したと新井白石(あらいはくせき)は書き残しているようだが、江戸幕府成立前後の通史である『当代記(とうだいき)』では慶長13年に南蛮船で渡来したとある。それより先にポルトガル人によって九州あたりに渡来したとの説もあって、うがって考えると、宣教師たちにも愛煙家がいて、彼らが日本にタバコを持ち込んだのではないか、と想像してみるのも面白い。
 慶長年間に江戸ではタバコが嗜好品(しこうひん)として人気となると、江戸幕府が慶長17年8月6日に、タバコの栽培、売買と喫煙禁止の町触(まちぶ)れを出したのは迅速な対応と言わなければならない。でも、この町触れが行き届いたかどうか疑わしい。というのも、三浦浄心(みうらじょうしん)の『慶長見聞集(けいちょうけんもんしゅう)』には、江戸の町医者の道安という者は、タバコの煙は咳などに効くと称しているように、喫煙にまつわる噂が広がり、流行になって皆が吸うようになったと伝えているからである。
 その後、タバコは普及し、キセルでの喫煙は江戸の人びとの日常の楽しみとなった。ちなみに、タバコの値段は銘柄(産地)によってまちまちで、九州産のものが江戸っ子に好まれた。
 元禄8年(1695)10月、江戸町奉行は「歩きタバコ」を禁止した。キセルでの喫煙「キセルタバコ」で往来を歩くと捕まったのである。この年の2月に江戸大火、それによって定火消(じょうびけし。今の消防隊。5割増しに増設)を整備し、9月に放火犯罪が増えたことなど、火災をおそれての禁止だった。宝暦13年(1763)の町触れでは、くわえギセルで往来を喫煙するのは、もってのほかのことだと触れているので、江戸の街中での歩きタバコ厳禁は、江戸っ子のあいだではマナーになっていたのかも知れない。
 歩きタバコをした者は、果たしてどんな刑に処されたか、具体的な事例を知らないが、放火犯は死刑と決まっていたから、かなり厳しい刑、例えば入牢手鎖(てじょう)百日の刑に科せられるのが最低刑だと、江戸庶民には予想できたことだったろう。とはいっても、くわえギセルで旅人が乗る馬を引く馬子(まご)たちの姿を小説類の挿絵で見かけるので、家が建ち並ぶ江戸の街中を離れた郊外などでは、火の不用心という意識も薄かったものと考えられる。
 ところで、戯作者(げさくしゃ)の十返舎一九(じっぺんしゃいっく)はミリオンセラーの『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を執筆しているときも、キセルは手放せなかった。タバコの煙をくゆらせながら、弥次さん北さんのドタバタ喜劇を考えていたようで、かなりのヘビースモーカーだったと思われる。たぶん、『道中膝栗毛』の取材旅行で各地を旅していたときも、キセルを手放せず、歩きタバコが常習だったろうと思われる。今流に言えばチェーンスモーカーといったところだったろう。 

タバコをくゆらす十返舎一九の肖像。「談合の膝栗毛こそたのむなれ兎(と)に角あしにまかすむまや路 十返舎」と書かれている。『東海道中膝栗毛』初編(享和2年〈1802〉刊)冒頭の挿絵より。

新井白石…1657~1725。江戸中期の儒者・政治家。徳川家宣(いえのぶ)、家継(いえつぐ)に仕え、側用人(そばようにん)の間部詮房(まなべあきふさ)を補佐して幕政を支える。武家諸法度(ぶけしょはっと)の改正、貨幣改鋳などに尽力した。

『当代記』…近世初期の日記風の年代記。9巻。天文年間(1532~55)からの将軍家・諸大名の動向を主に記録。江戸初期の幕府の研究になくてはならない資料。

三浦浄心…1565~1644。江戸前期の仮名草子作者。相模国(神奈川県)の人。後北条氏に仕え、その滅亡後は江戸で商人となる。著書に、近世初期の江戸の風俗を記録した『慶長見聞集』をはじめ、『北条五代記』『そぞろ物語』など。

十返舎一九…1765~1831。江戸後期の戯作者。はじめ大坂で浄瑠璃作者となるが、寛政6年(1794)、江戸に出て蔦屋重三郎に寄食し、黄表紙(きびょうし)を発表。以後、洒落本(しゃれぼん)、滑稽本、読本(よみほん)、咄本(はなしぼん)など、さまざまなジャンルで活躍した。

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