第68回 江戸の「狆」ブーム

 近頃のペットブームで、さまざまな犬種が公園などを散歩しているのを見かけるが、とくに小形犬が目につく。「狆(ちん)」を飼う人もいて、その顔を見るたびにチンがクシャミをしたような顔、「チンクシャ」という言葉を思い出す。
 江戸時代、「狆」は、将軍をはじめ大名や富裕町人がこぞって愛玩した高級犬の代表であった。
 犬と江戸時代といえば、即座に「犬公方(いぬくぼう)」こと五代将軍徳川綱吉(つなよし)を想起する人が多かろう。悪名高い「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」を思い浮かべるからで、「生類憐みの令」は貞享2年(1685)からはじまるとされ、将軍が通るときに犬・猫がいても構わないという町触(まちぶ)れを発端に、やがて牛・馬にまで拡大し、次第に犬の保護に力を入れるようになった。
 武蔵国(むさしのくに)中野村(現在の東京都中野区)に約30万坪の保護区をつくり、江戸市中の野良犬10万匹を保護するにいたり、綱吉の生母桂昌院(けいしょういん)が戌年生まれだから犬を保護するのだとの孝行談もうまれて、「生類憐みの令」が江戸市民の怨嗟(えんさ)の的(まと)となる。
 綱吉は性格的に、ちょっとアブナイ人だったとの説もあるように、大名や幕臣を集めて儒教・仏教を講義したり、その一方では生涯、「生類憐みの令」の浸透に固執している。そして、長女が生まれると鶴姫(つるひめ)と命名したのも動物好きが高じた結果かもしれない。
 この鶴姫が結婚すると、貞享5年正月、花嫁の父・綱吉は「鶴と申す名、人々付け申すまじき」という町触れ(「鶴の字法度(はっと)」)を出させた。さて困った浮世草子(うきよぞうし)作家の井原西鶴(さいかく)は、ペンネーム使用に躊躇(ちゅうちょ)し、江戸歌舞伎の中村座は「舞鶴」紋をやめて、鶴を銀杏(いちょう)の葉に変え、似たようなデザインである「隅切角(すみぎりかく)に銀杏」の紋に替えざるをえなかった。さしずめ今で言えば、日本航空が遠慮して鶴のマークを何かに替えるようなものである。
 さて、動物保護主義者の綱吉時代以前から犬の愛玩ブームがあったようで、その一部が野犬化していったのであろう。江戸には野犬が多かった。しかしその一方で江戸には、次々に珍しい舶来の犬がもたらされていた。
 外国から犬を買い求めたのも、長崎が窓口であった。      代々長崎の町年寄や代官を勤めた高木作右衛門(さくえもん)が輸入犬について幕府に報告した資料があるが(注参照)、それを見ると中国産の唐犬は別にして、オランダから輸入される小形犬から中形犬までを「狆」と総称していて、当時の人びとが、外来種の中形犬までをすべて「狆」と呼んでいたことがわかる。つまり、この頃、「チンクシャ」の狆ではない「狆」がたくさんいたのである。
 江戸の浮世絵や黄表紙(きびょうし)などには、こういったいろいろな種類の「狆」が登場していて、座敷犬として当時大変流行していたことがわかる。図版の、山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙『唯心鬼打豆(ただこころおにうちまめ)』に登場する「狆」は、今でいう日本テリアのような犬種である。
 それが、明治になって海外貿易が自由になると、江戸時代に海外へ輸出されていた「チンクシャ」の狆が逆輸入されるようになり、その犬種だけを特定して「チン」と呼ぶようになる。
 こうして、「チン」は家庭内で飼育される愛玩犬として流行し、女性たちに好まれるようになり、「チンクシャ」という形容詞が明治になって生まれたのである。

動物の魂と入れ替わることのできる豆を観音様からもらった男が、狆になってみると、菓子のお預けをされて「行儀のよい狆じゃ」と褒められるが、じつは餓飢道(がきどう)の苦しみを感じていることがわかる。(『唯心鬼打豆』寛政4年〈1792〉刊)

狆…小形犬の一種。奈良時代に中国からもたらされ、江戸時代に盛んに飼育繁殖された。日本特産種として海外に輸出され、現在はイギリス・アメリカに優良種が多い。

徳川綱吉…1647~1709。家光(いえみつ)の第四子。四代家綱(いえつな)の弟。上野国(こうずけのくに)館林城主。延宝8年(1680)将軍となる。湯島聖堂を開き、朱子学(しゅしがく)を官学とした。「生類憐みの令」や貨幣改鋳といった大胆な経済政策に踏み切るなどして、江戸に独自な元禄文化を開かせた。

桂昌院…1627~1705。三代将軍家光の側室、お玉の方。京都の人。二条家の家臣本庄家の養女となり、江戸大奥に入って家光に寵愛され綱吉を産む。神仏に帰依し、護国寺、護持院を建立した。

鶴姫…1677~1704。明信院。母は綱吉の側室お伝の方(瑞春院)、貞享2年(1685)、9歳で八代将軍吉宗の兄である綱教(つなのり。紀州藩主)に嫁いでいる。

井原西鶴…1642~93。江戸前期の浮世草子作者・俳人。『好色一代男』『好色五人女』『日本永代蔵』『世間胸算用』など、浮世草子の名作を数多く残した。

高木作衛門…安土桃山時代から江戸時代にかけて、長崎の町年寄・御用物役・地方代官などを勤めた高木家の歴代の名前。高木家は、寛文年間(1661~72)長崎に渡来した産物を幕府に通報する役目を命じられ、鳥獣については絵を描いて江戸に送っていた。この絵の控えのうち、寛保年間(1741~43)から嘉永年間(1848~53)までが折帖『唐蘭船持渡鳥獣之図』(慶應義塾大学蔵)として残されており、そこには「狆犬」と称してさまざまな小形・中形犬が描かれている。(参考:磯野直秀『舶来鳥獣図誌 唐蘭船持渡鳥獣之図と外国産鳥獣之図』1992年、八坂書房刊)

山東京伝…1761~1816。江戸後期の戯作者(げさくしゃ)・浮世絵師。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者。

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