第83回 江戸の大雪

 関東では春先に思わぬ大雪が降り、首都圏の交通機関が動かなくなることがある。
 江戸時代、荷商いの小商人(こあきんど)は、大雪になると行商に出られず、それを待っていた庶民も困った。昔から、都市は雪に弱いのである。
 しかし一方では、めったに見られない一面の銀世界となった江戸の名所を愛(め)でる風流人たちもいて、隅田川へ雪見舟を漕(こ)ぎ出し、仲間で向島や浅草の雪景色を望んだあと、川を下って深川の茶屋街へ出向いて雪見酒と洒落ていた(図版参照)。
 19世紀に入ってまもなくの文化・文政期(1804~1830)には、江戸で何度も大雪が降った記録が残っている。この時期は、日本全体が寒冷期になっていたのかも知れない。文化5年(1808)正月9日には、江戸で二尺(約60㎝)という50年このかたの大雪、翌文化6年12月には、積雪一尺(約30㎝)を越す大雪に見舞われている。
 正月元旦の大雪ということもあった。文政5年(1822)には、「正月元旦、雪尺に満つ」(『武江年表』)と書かれているように、江戸に降った大雪は一夜にして一尺を越したという。この大雪の中、江戸城へ、御三家(ごさんけ)の使者が将軍徳川家斉(いえなり)のお見舞い伺いにやって来て、城内はあわただしかった。五千石の旗本(はたもと)の登城の従者は10人(寛永5年〈1628〉2月に定める)であったから、御三家の使者とはいえ登城となれば、ちょっとした雪中の行軍の体だったろう。
 文化・文政期の天候不順は、江戸の経済まで冷え込ませてしまったようだ。そこで幕府は、財源を確保し、景気の回復を期して、じつに80余年ぶりに、小判などの貨幣改鋳(かいちゅう)をする(文政2年)。貨幣改鋳は、家斉の大御所政治による、大奥をはじめとする幕政の放漫経営に起因し、幕府の財政立て直しのためのものだったのだが、久しぶりの貨幣改鋳によって、経済における副作用が起こってしまった。
 この貨幣改鋳の特徴は、小判・一分金の金貨、銀貨、もうひとつ銭(銅)という江戸時代の三貨制度のなかで、銀貨の品位(含有率)を特に落とし、改鋳した銀貨を大量に市場へ出すこと、つまり「銀安」にしたことにあった。現代でも「ちんぎん」(賃銀・賃金とも書くが)と呼びならわしているように、大工の職人や武家・商家の奉公人たちの給与は銀払いだったから、銀安は職人や奉公人たちの実質賃金の目減りという事態になったわけである。
 銀安はインフレーションを招き(現今、政府が日銀紙幣を大量に市場に流し、デフレを脱却させインフレを起こそうというのと原理は同じ)、インフレによる物価の騰貴(とうき)はボディブローとしてきいてきて、庶民たちの懐(ふところ)はだんだん寒くなっていった。場当たり的な思い付きの幕府の経済政策が下層町人の上にまず、積もる大雪のようにジワリと、重くのしかかってきたのである。 

深川の二軒茶屋での雪見の様子。広い庭一面の雪に戸を開け放して、火鉢と料理を囲んで宴を楽しんでいる。『江戸名所図会』(天保5年〈1834〉刊)より。

御三家…徳川将軍家の一族、尾州、紀州、水戸の三家をいう。

徳川家斉…1773~1841。江戸幕府第十一代将軍。天明7年(1787)将軍となる。松平定信を老中に任じて寛政の改革を行ったが、定信失脚後は、家斉の親政となって幕政がゆるみ、江戸町人文化全盛の文化文政時代をむかえた。将軍を譲った後もなお、大御所(おおごしょ)と称して実権をにぎった。

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