第94回 江戸の馬いろいろ

 今年の夏は台風の当たり年になるのであろうか。これも異常気象の影響かと心配になるが、最近は台風が接近した地域とかなり離れたところで集中豪雨になるから厄介である。
 夕立やゲリラ豪雨では、突如として限られた地域が豪雨に遭っているのに、空を見ると隣の地域には晴れた陽差しが見えることがある。これを馬の背中の左右にたとえ、片方はすさまじい雨降りで、片方は濡れてもいないこととして、「馬の背を分ける」という言い方をする。 
 「馬」という言葉を使った熟語や諺(ことわざ)は、馬を知能や程度が低いものの代名詞として使うケースが多い。何もせずに年老いてきたことを謙遜(けんそん)していう「馬齢(ばれい)を重ねる」はその典型でもあろう。ほかの動物と組み合わせると、たとえば鹿と組み合わせると説明は不要であろう。
 現代では馬というと競馬を連想することになろうか。家畜として馬を飼う農家もほとんどなくなったから、馬はもっぱら競走馬ということになった。
 江戸の昔、馬はとくに東日本の農家で農耕馬として飼われ、西日本の農家は牛を飼って農耕に使ったようであるが、そこには意外な理由があった。
 どうして日本の東西で農耕馬と農耕牛と、飼う動物が異なっていたかというと、農地と気候の問題があったからである。東日本は冷害に悩まされ、土地は冷たい湿気を含む土壌だったのに対し、西日本は気候が温暖だけに干(かん)ばつと背中合わせになっていたことが理由であった。馬や牛の糞尿で作られる厩肥(きゅうひ)は人肥や堆肥(たいひ)と並び農業には貴重な肥料だった。
 化学肥料のない江戸時代、馬の厩肥は牛より発酵温度が6℃ほど高く、雪が降る冷害地が多い東日本の農地には寒肥(かんごえ)に向いており、気温が高く土地が乾き農地が固くなる西日本では、力の強い牛が耕地作りに向いていたことによるようだ。
 江戸では馬の数が圧倒的に多かった。というのも、いざ戦陣という場合に備え大名や旗本などは家格や石高(こくだか)に応じ、ある一定の数の馬を飼っておく必要があったから、武家屋敷の玄関の横には「馬の口」という厩舎があり、そこでは馬の嘶(いなな)きが聞こえていた。
 「馬の口」から顔を出すのはもちろん「馬顔」の馬だが、たてに長いだけでなく、少しまぬけな顔のことも「馬顔」と言う。また、「馬並み」というと、男根が馬のそれに匹敵するくらい大きなことを形容し、当の本人は自慢なのか、迷惑なのか解釈が分かれる。
 図版は、吉原へ登楼した客が「馬並み」なので、相手をする若い遊女の振袖新造(ふりそでしんぞう)がビックリして泣き出し、廓(くるわ)の若い者が宥(なだ)めている図である。鼻が大きく馬並の一物をもつ客は文字通り馬となって、「また断られたか、馬々しい(いまいましいの駄洒落)」と床(とこ)の中で立っている。
 若い者が、「あの客は義理のある人なので辛抱しろ」と諭(さと)しているが、まだ若く十代の振袖新造だから、「座敷で遊んでいるときは人のようだったけれど、床の中だと馬だもの……」とウブで泣くばかり。これが、トウの立ったベテラン女郎にもなると、「ご自慢なのでしょうが、ちょっと便所へ」と床から抜け出して、義理ある客だから我慢しなさいと若い者が諭しても馬耳東風、「いやでアリンス」と、その場をうまく逃げ出すにちがいない。

馬並の客に驚き、床から逃げて泣き出す振袖新造。山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)『九界十年色地獄(くがいじゅうねんいろじごく)』(寛政3年〈1791〉刊)より。

振袖新造…江戸吉原の遊廓で、振袖を着ている禿(かむろ)あがりの若い遊女。まだ見習い期間のため接客が慣れていない。

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