第95回 手鎖は「てじょう」と読む!

 江戸の戯作者(げさくしゃ)を代表する山東京伝(さんとうきょうでん)が亡くなったのは文化13年(1816)の9月7日のことだった。その死亡の経緯については諸説あるものの、7日未明に脚気衝心(かっけしょうしん)のため、数え歳56で亡くなったというのが実説に近いだろう。
 昔流の亡くなった年から数える数えの計算ですると、今年が京伝没後200年になる。
 その京伝は数え歳31の年の寛政3年(1791)、洒落本(しゃれぼん)の『錦之裏(にしきのうら)』『仕懸文庫(しかけぶんこ)』などの三作を著作刊行し、前年に出されていた出版禁止令に抵触したというかどで入牢(にゅうろう)させられ、町奉行から「手鎖」50日の刑を申し渡された。京伝は錠前が掛けられた「手鎖」で手を束縛されながら、50日間、自宅で謹慎した。錠前に封印紙が貼られていて、5日ごとに与力(よりき)・同心(どうしん)が封印を確認に来ていた。
 この「手鎖」を何と読むのかであるが、江戸時代に読んでいた読み方と明らかに違う読み方が、ある事情で流行(はや)ってしまって今に至る。
 昭和47年(1972)、作家の井上ひさしが「手鎖」を「てぐさり」と読ませ、京伝の筆禍事件に取材した小説『手鎖心中(てぐさりしんじゅう)』を発表した。この小説は評判になり、以後、「手鎖」を「てぐさり」と一般に読むようになったのである。
 江戸時代には、刑罰の判例として「手鎖」とだけでなく、「手錠」とも書かれていた。「手鎖」という刑は両手を束縛され、外れないように錠前(じょうまえ)を掛けられた刑だったからで、その刑罰があった江戸時代は「てじょう」と呼ばれていたわけである。
 式亭三馬(しきていさんば)の黄表紙(きびょうし)『封鎖心鑰匙』(享和2年〈1802〉刊)は、「ぴんとじょうまえこころのあいかぎ」と読む。「封」は「ぴんと」、「鎖」を「じょうまえ(錠前)」と読ませ、心にしっかり錠を掛けて用心せよ、という意味の書名である。「鎖」は錠前の意味だった。
 ちなみに、「鎖」を「くさり」と読んで、繋(つな)がれる鎖の意味に解釈すると、「鎖国」は、日本を鎖で繋がれた国にしようとしたことなのだろうか、ということになろう。そうではなく、鎖国とは国の防備に錠前を掛けて取り締まるという意味で幕末になって「鎖国」と呼んだわけで、「封鎖」なども同じある。
 では、なぜ、井上ひさしが「てぐさり」と読んでしまったのであろうか。こんな経緯があるのではということがわかった。
 『武江年表(ぶこうねんぴょう)』という江戸とその近郊の地誌や事件などを編年体でまとめた、江戸を研究するのに便利な書物がある。江戸時代、斎藤月岑(さいとうげっしん)が編纂して、正編が嘉永3年(1850)、続編が明治11年(1878)に成立した。補訂版として、喜多村信節(きたむらのぶよ)の『武江年表補正』がある。
 大正元年(1912)、この『武江年表』を活字刊行するにあたり編纂者の朝倉無声(あさくらむせい)は、京伝の筆禍事件の様子を『武江年表補正』に拠(よ)り、「山東京伝奉行所より吟味有て、手鎖にて町内預けになりし」と補記し、原文のままルビをふらず「手鎖」としていた。
 ところが、昭和43年(1968)に『武江年表』が校訂され、寛政年間の京伝の記事には、「手鎖」に「てぐさり」と新たにルビが振られていたのである。
 井上ひさしは、それを読んで京伝は「てぐさり」50日の刑に処されたとして『手鎖心中』とし、以来、「手鎖」は「てぐさり」と読まれるようになったと考えられるのである。

山東京伝が筆禍を受けた洒落本のうちの1冊『錦之裏』(寛政3年〈1791〉刊)の口絵より。吉原遊廓の裏側「内証(ないしょう)」の昼の様子が描かれている。右では髪結(かみゆい)が遊女の髪を結い、左では魚屋が持ってきた魚介を店の者に見せている。

山東京伝…1761~1816。江戸後期の戯作者・浮世絵師。洒落本・黄表紙の第一人者。洒落本とは、遊里での男女の遊びを会話体で描いた小説。京伝の死亡原因の「脚気衝心」とは、脚気にともなう急激な心臓機能の不全。

式亭三馬…1776~1822。江戸後期の戯作者・狂歌師。本屋に奉公した後に、薬屋を経営した。庶民の日常生活を会話体で面白く描いた滑稽本(こっけいぼん)『浮世風呂』『浮世床』などで知られる。

斎藤月岑…1804~78。江戸末期の著述家。江戸神田の人。名は幸成。博覧強記で、祖父幸雄の撰、父幸孝の補修した『江戸名所図会』を校訂して出版した。著作はほかに『東都歳時記』など。

喜多村信節…1783?~1856。江戸後期の国学者・考証学者。和漢の書に詳しく、民間の風俗・雑事を記録・考証して集大成した。著作はほかに『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』など。

ほかのコラムも見る