第19回 「曖昧なアメリカの私」

 日本語は曖昧だと、日本人が思い込んでいるらしい。

 日本文化について語り合っていても、日本のマスコミの問題を論じてみても、日本の国政の話題をサカナに一杯やっているときでも、だいたい誰かが「やっぱり日本語っていうのは曖昧だからね」といったセリフを吐く。意識調査の統計を見たことはないが、「日本語=曖昧語」のイメージがこの列島の津々浦々にまで広まっているようだ。ぼくはこれまで企業家からも大学教授からも、主婦、サラリーマン、タクシーの運転手からもいわれたことがある。それぞれの口調は異なれど、口々に「日本語は曖昧ですから」という。

 ぼくはそれに対して、どうしてもうなずけない。英語の中で生まれ育ち、20歳すぎてから日本語を学び出して、はや四半世紀、このふたつの言語を行ったり来たりしながら生きてきて、自分の体験を通じて正反対の印象を得たからだ。日本語が特別に曖昧ではなく、どちらかといえば英語のほうが荒削りの表現に富んでいて、曖昧な部分がやや多いと思う。

 ところが、皮肉なことに「日本語=曖昧語」の定説の根拠とされるのは、往々にしてぼくの母語との比較だったりする。もちろん「曖昧度」を測る基準そのものは曖昧さを多分に孕んでいて、しかも両言語の全体を比べようと思ったら気が遠くなる作業が待ち受けているのに、そんな本格的な分析による比較は出てこない。恣意的にディテールをピックアップして天秤にかけるやり方で、定説に好都合な言語学が流布してしまっている感じだ。

 日本語の曖昧さのひとつとして、「主語を省略するので具体的に誰の行為なのかはっきりしない」という特徴が、たびたび取り上げられる。たしかに英語では主語を話に盛り込む場合が多く、その一点にしぼれば日本語が曖昧だといえる。先人たちがもともと曖昧さを狙ったというより、いわずもがなの主語を省いていった結果に違いないが、ずるがしこい日本語のプロにとってはこの文法は重宝する。

 浜の真砂の数ほどある「主語抜き」の日本語の例文の中でも、広島の平和公園の慰霊碑に刻んであるものが有名だ。

   安らかに眠って下さい
   過ちは繰返しませぬから

 ウランの核分裂に晒されて命を奪われた人びとに対して、「繰返しませぬから」と約束しているのは、いったい誰なのか。「歴史は繰り返す」と大昔からいうが、そうはさせまいと、いったい誰が保障するのか。もし死者への深い思いに裏打ちされているものであるならば、碑文の意思表示は、このままでも成立する。が、責任転嫁の可能性を前提に契約書の一種としてとらえた場合、主語の省略は重大な欠陥といえる。

 ただ、それ以上に「過ち」の曖昧さが、ぼくはクセモノなんじゃないかと考える。核分裂の連鎖反応を、広島の上空で引き起こしても長崎の上空で引き起こしても、福島第一原子力発電所の原子炉内で引き起こしても、川内原子力発電所の炉内で引き起こすにしても、物理学的にまったく同じ現象だ。どれもみんな生命体をヒバクさせる「過ち」につながるので、ぼくは当たり前の同一性をそこに見る。でも、原子力を推進したい勢力は意味を矮小化させ、原発の「過ち」を「正解」に見せかけようとする。メルトダウンの「過ち」を犯したあともなおさらだ。核にまつわるこのマヤカシは、なにも日本語限定の現象ではなく、アメリカ英語でもイギリス英語でも同様にずっと繰り広げられてきているのだ。

 さて、英語ならではの曖昧さを示す実例はどうか。

 21世紀に入ってから曖昧な英語をもっとも巧妙に利用した人物は、おそらく第44代アメリカ合衆国大統領バラク・オバマだろう。ま、オバマ陣営に雇われたコピーライターやスピーチライターや選挙プランナーが巧妙に利用したといったほうが正確か。彼らは曖昧な表現を見事に組み合わせ、最大限のPR効果を出して2008年の大統領選で勝利をおさめた。数ある曖昧なキャッチフレーズの中でも、いちばん効いたのはChangeだった。

 言質を取られないようにごまかす常套手段として、英語の動詞を活用させず単独で原形のまま使うテクニックがある。勇ましい候補者がChangeを堂々と唱えると、聞き手はつい「この人は『変える』つもりなんだ」と思い込む。けれど実際はChangeには「変える」という他動詞も「変わる」という自動詞も、「変化」だの「変異」だの「心の移り変わり」といった名詞も、すっぽり含まれる。つまりChangeを実施する主語が曖昧になるのみならず、そのChangeの中身も方向性すらすべて曖昧のまま素通りするのだ。

 アメリカ合衆国の有権者の多くは、他動詞として真に受けて期待していたようだが、当選を果たして2009年の初めに就任したオバマ大統領は、さっそく自動詞のほうの意味を活かしてガラリと変わってくれた。残念ながら「嘘つきだ!」と責めるわけにはいかない。なにしろそれもChangeの内だから。

 思い出せばもうひとつ、英語ならではの曖昧なキャッチコピーが、オバマ候補の口からしょっちゅう飛び出ていた。2008年11月4日の夜、シカゴでぶった勝利演説でも繰り返しYes, we can.を使った。ごくシンプルな単音節の言葉の組み合わせで、三拍子のリズムも抜群によくて、一見わかりやすいフレーズではある。けれど本当はcanにつづく動詞と目的語が出てこなければ、どうとでもごまかせるアヤフヤなコマーシャルにすぎないのだ。

 オバマ大統領就任式のあと、ぼくは仕事で福岡県久留米市へ出かけた。少し町をぶらぶら歩く時間もあって、ラーメンを食べてから交通量の多い通りの交差点で横断歩道を渡ろうとしたら、信号機の向こうにオバマ大統領の看板が立っているではないか。カッコよく演説をぶっているポーズで、手に筒状のものを持って訴えている写真だ。よく見ればそれはハンコを売っている店の看板で、大統領の写真の下に「Yes!印鑑」とでっかく書かれていた。

 ひどく曖昧な英語の文句よりも、この日本語のほうがとても具体的で、ぼくはハンコ屋さんにお礼をいいたい衝動にかられた。

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