第二十四回 「中華でいい」

第二十四回 「中華でいい」

 これといった趣味がなく、毎日食べもののことばかり考えている。
 恥ずかしい。が、「ところてん突き」を買うところまでいけば、これもまた立派な趣味といっていいのかもしれない。
 ところてんのことはおいといて、帰省シーズンでもあり、中華のことを考えてみたい。
 故郷に、なつかしさを感じるような行きつけの外食店はあまりない。うちの母は徹底して家メシの人であった。もちろん少年時代に2、3回入ったそば屋など、残っている店もあるのだが、店舗も新しくなっているし、何よりその程度の回数ではノスタルジーにつながらない。
今回の一枚(クリックすると大きく表示します)
 だからその中華食堂も、父の入院でドタバタしている時に初めて入った店だった。
 初めて入った店でたのむのは当然ラーメンだ。それは決まっていたのだが、メニューを吟味するふりをして楽しんでいると、座敷席から賑やかな声。年配の女性たちだ。
「私は……中華でいいわ」
「私も中華」
「じゃあ中華」
「みんないっしょがいいね。私も中華」

 中華。
 それはもちろん「中華そば」のことであり、そういう略称があることも知ってはいたが、連呼されると妙な感じだ。チャーハンだって、肉野菜炒めだって中華だろ、という気持ちになる。
 自分も「中華」とたのもうと一瞬思ったが、気後れして「中華そばください」とヘナヘナたのんだ。
 中華そば、支那そばの呼称は、当たり前だが日本そばを前提としている。
「中華そばというのを横浜で食べたが、あれはうまいものだよ」などという、明治か大正か知らないが、ラーメン黎明期の会話が聞こえるようだ。
 話はそれるが「支那」というかつての中国の呼び名は、使用してはいけないのか、いけなくないのか。難しい問題もあるようだが、少なくとも私の中に蔑称であるという意識はない。
 今でも「しなそば」とラーメンを呼んでいる店もあるし、その語感はとてもうまそうだ。メンマを「しなちく」と呼ぶのも郷愁をさそう。
『シナの五にんきょうだい』という大好きな絵本もあった。
 これは『ちびくろサンボ』と同様に、差別的であるとして一時絶版に追いこまれていたようだが、復刻されたらしい。いいことである。
 グローバルもへったくれもない時代の、外国観のある種の誇張がおもしろさを生むことはあるわけで、それを「ダメ!」と決めつけるのは愚かでありもったいないことだ。
「日本にこんな忍者はいません!」
と、世界中の忍者表現に抗議するようなものである。
 もちろん、尊敬と親しみがともなっていることが前提だけれど。
 さて、話は中華である。
 その店の中華は「ああ、中華だ…」としみじみする、普通のうまさであった。はっきり年齢的なものと自覚しているが、どんどんそういう「昔の味」を好むようになってきている。
 チャーハン、餃子、定食類があるような店のラーメンがいい。もちろんまずくてはいやだが、まずすぎなければOKだ。
 マニアがブログに書くような、行列ができたりするラーメン専門店もいいが、もうある程度のうまさのテクニックは極め尽くされているような気もして、たいへんそうだな、と思う。
 うわ、うめー、と思いつつも、何というか「少年マンガの敵の、強さのインフレ」のようなものを感じてしまったりもするのだった。
 その点、そういう土俵上で戦う気がない中華料理店はいい。
「美味 冷やし中華」
 そう書かれた手書きの貼り紙の「美味」の空虚さはどうだ。
「とりあえず美味と書いとけ。まずかぁないんだし。わはははは」
というような、中華の明るさがとてもいい。
 冷やし中華。
 中華そばを「中華」と呼ぶのは昔っぽいが、冷やし中華という呼び方はまだバリバリの現役だ。正式名称はいうまでもなく「冷やし中華そば」であって、餃子や八宝菜を冷やしたものではないのである。
 冷やし中華を食べたあとには後悔の気持ちがつきまといがちだ。
 横の客が汗をかきながらラーメンを食べていたりするとなおさらだ。「あったかい汁恋しさ」の気持ちである。なんだこの甘酸っぱいあと味は、中華スープ吸いてえー、と思うのだった。
 冷やし中華が「つけめん」に完全におくれをとってしまっているのは、温かい中華スープの有無が原因ではないか、とすら思う。
 冷やし中華には中華スープをつけるべきだ。それが、つけめんに対抗する方法の一つだと思う。対抗しなくてもいいのだが。

 中華丼。
 あれも中華を冠しているが、「中華ちょうだい」といってあれが出てくることはない。これも微妙に斜陽の雰囲気をまとった食べ物で、店の人気メニューだったりする話など聞いたことがない。なんだか古いような、とりあえず定番なのでメニューにはありますが、というような。
 片栗粉でとじる、あんかけ料理であるというのが、古めかしさの一因かもしれない。
 あんかけは料理になくてはならない手法だが、ある種の装飾というか、ごまかしに近い。もやしを炒めてあんかけにすればなんとなく一品になるように、家庭料理ではあるけど「そそられるプロの料理」ではないような。
 ラーメン専門店に、あんかけメニューはまずないといっていいだろう。ガッツリ入れた山海のダシ、こだわりの自家製麺で勝負する最先端のラーメンに、あんかけの出番はないのだと思う。
 一見立派なのに、その立ち位置の弱さ。
 それが中華丼の魅力であり、さすがに夏に食う気にはならないけど、風が冷たくなってくれば何回か知らない店で食べ、後悔したりすることになる。
 ラーメンほどではないが、これだけ長年食べ続けてきて「リピートしたくなるような中華丼」にまだ出会えていないという事実。
 なんだか恐ろしいような、けっして目立とうとしない黒幕のような、そんな不気味な迫力も、あのおもしろみのない外見からただよってくるのだ。

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