バックナンバー
第7回 クモが夢見たインターネット網(後編)
2015年7月6日 山根一眞

事典に入り込んだのはドイツか大連か

 こうして110年前のドイツ百科事典に貼り付いていたクモの遺骸の身元の全貌がほぼわかったのだが、さらに知りたいことは膨らみます。
 いったいこいつは、どこでこのページに入り込んだのだろうか?
 『Meyers Großes Konversations-Lexikon 1905』全20冊は妻の祖父、豊田太郎の蔵書だった。医学者だった祖父は若い時代にドイツに留学していたという。
 つまり、ユカタヤマシログモは、ドイツで購入した時にすでに入り込んでいたのかもしれない。この百科事典の出版社の所在地はドイツのライプチヒなので、ライプチヒの印刷所、あるいは製本所で閉じ込められたのだろうか。
 ユカタヤマシログモに、Scytodes thoracicaという学名がついたのは明治維新の64年前、1804年のことで、命名者はフランスの昆虫学者、ピエール・アンドレ・ラトレイユ(1762~1833)だが、欧州各地ではよく見られるクモのようなので、ドイツ・ライプチヒの印刷所か製本所で紛れ込み、封印されたのであれば私が発見するまで110年間、このページで眠り続けたことになる。
ユカタヤマシログモの学名命名者はフランスの昆虫学者、ピエール・アンドレ・ラトレイユ(出典:http://www.slideshare.net)。 
 私は、この祖父の蔵書を叔父から譲ってもらったのだが、その際、「父がこの百科事典を開いているのを見たことはなかったね」と話していた。背表紙の豪華さからか、かつて百科事典は応接間の文化的飾りとして多く買われた時代があったのだ。
 本の各ぺージの上の部分を「天」と呼ぶが、ここが金色に塗装されているものがかつてはよくあった。これを「天金」と呼ぶ。
 『Meyers Großes Konversations-Lexikon 1905』はその「天金」が施されているのだが、私が初めてこの百科事典を開いた時には、この「天金」部分がくっついたままで、ページをめくるたびに「パリパリ」と剥がれたため、「あ、確かにこれは購入してから開いたことがなかったんだな」と思った記憶がある。
 購入後に一度もページを開いていなかったのであればライプチヒ産で間違いない。もし祖父がドイツ留学中にクモのページを開いていれば、やはりドイツ生まれということになる。
 祖父は、大正末期に九州帝国大学医学部から当時東洋最大の病院と言われた大連療病院の院長に赴任していたので、このクモが中国の大連で入った可能性もある。
 祖父は大連で中国に多い感染症の治療やワクチン開発に取り組んでいたというが、その研究途上に自らの研究テーマであった猩紅熱(しょうこうねつ)に感染して亡くなっている。
 では、大連で入った可能性はあるだろうか?
 中国科学院動物研究所のデータベースで調べたところ、ユカタヤマシログモの中国名は「黄昏花皮蛛」(なかなか味のある中国名です)。所蔵標本は5件あり、その採集地は3点が北京、1点が陝西省(せんせいしょう)とある。このクモが中国の広い範囲に棲息していることが窺える(1点はドイツで採集した標本)。
 つまり、大連で百科事典に入り込んだ可能性も少しだがある。
中国科学院動物研究所の標本データベースに記載されているユカタヤマシログモ。
 祖父の死後、家族はこの百科事典を日本へ持ち帰ったという。となると、ユカタヤマシログモは、昭和12年以降の日本で入ったのかも。
 1985年頃に私の書斎に移ってからは、私はしばしばこの百科事典を開いてきたので、私の書斎(東京・杉並区)で入ったのかもしれない。「ユカタヤマシログモ」は世界のどこにでもいるので、どこで百科事典に入り込んだのかの特定は不可能だった(炭素同位元素を調べればある程度の年代はわかるだろうが)。
 
 特定はできなったが、こうやって調べることで、このクモのコスモポリタンぶりがあらためて理解できた。
第7回 クモが夢見たインターネット網(後編)
1   2   3

著者画像
著者プロフィール
山根 一眞(やまねかずま)
 ノンフィクション作家・獨協大学特任教授
 1947年、東京生まれ。獨協大学外国語学部ドイツ語学科卒。20代からジャーナリズムの仕事を開始。先端科学技術や情報分野、アマゾン環境問題など広いテーマで「謎」を追い求めてきた。NHK総合テレビでキャスターを7年こなし、北九州博覧祭では「ものつくりメタルカラー館」の、愛・地球博では愛知県の総合プロデューサーをつとめた。2009年から母校で経済学部特任教授として環境学や宇宙・深海、生物多様性などをテーマに教鞭もとっている。3.11で壊滅した三陸漁村・大指の支援活動も続けている。主な著書に単行本と文庫本25冊を刊行した「Made in Japan」を担うエンジニアたちとの対談『メタルカラーの時代』シリーズ(小学館)、『環業革命』(講談社)、『小惑星探査機はやぶさの大冒険』(マガジンハウス、東映で映画化)、『小惑星探査機はやぶさ2の大挑戦』(講談社)など多数。『日経ビジネスONLINE』では「ポスト3.11日本の力」「山根一眞のよろず反射鏡」を連載中、福島第一原発の廃炉技術も追い続けている。理化学研究所相談役、日本生態系協会理事、宇宙航空研究開発機構客員、福井県文化顧問、2018年国民体育大会(福井県)式典総合プロデューサーなど。日本文藝家協会会員。

山根一眞オフィシャルサイト
http://www.yamane-office.co.jp
バックナンバー